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いつだって素直な気持ち

楽しく生きてますか?
 先日、facebookで「幸せに生きる為に自分にしてはいけない15のこと」という記事を紹介しました。
”すべきこと”、よりも”してはならないこと”、つまり断捨離や削ぎ落とすことで身軽にし、幸せに向かおう。ということです。
このサイトのリンクは最後に紹介しますので、後で読んでみてください。
私はこういった記事を読む時、「傾聴の姿勢」と「素直な気持ちで向き合うこと」を大事にしています。
できる/できないは後にしておいて、先ず受け取るのです。これができるかできないかで読んだことすらムダになるかならないかが関わってきます。常識や固定観念に囚われず、先ず受け取ってみてください。よく「感化されすぎ!」なんて口にする人は受け取ることを拒否しているはずです。そういう人から私を見ると、感化されすぎてる人に見えるはずですが、実はそうでもないのです。

子供の頃の気持ちをふたたび
 そしてこの記事を読んで、人生って制約が多いのだなぁ、と思いました。それと同時にその制約は社会や他人といった外部環境よりも、自分自身の内部環境の方が強いこともわかりました。つまり、自分でブレーキをかけてしまっている、ということです。
言ってしまえば、子供の頃を思い出し、もう一度素直な気持ちで行動することができたら。子供の頃は自由やワガママだったかもしれませんが、そこに大人のエッセンスを加えて、(この場合だと自己責任とかでしょうか)行動することができたら。自分のやりたいことを自己責任で実現できるはずです。
そんなの難しい、理想だけ!なんて思った人は大人の気持ちだけで判断してるはずです。子供の頃の気持ちの記憶。今一度思い出してみてください。

参照サイト:幸せに生きる為に自分にしてはいけない15のこと

利き手ひだり手、みぎ手利き手

”ぎっちょ”とゆーかつてのマイノリティ
 突然ですがみなさん利き手はどっちの手でしょうか?多くの方が「右手」と答えると思います。
私、箸は左手でえんぴつは右手なのです。すなわち勉強しながらご飯食べられます(行儀悪いですが)
ついで言うとボール、バット、テニスラケットは右手、フリスビーは左手、バトミントンラケットは両方OK!もはやぐっちゃぐっちゃです。
今でこそ利き手の矯正は減ったかと思いますが、私はちょっとだけ矯正されたクチです。
私の親は、矯正する気はありませんでした。自由にさせる方針のもと、育ててくれていましたので。
えんぴつの持ち手を直されたのは、”書き順がみんなと違くなるから”という理由でした。なのでお絵かきをする時に左手で持ったクレヨンなりを右手に持ち替えさせてたんですね。そしてご飯の時はそのまま(飯食う時は自由)だった、と。
こうして勉強しながらご飯を食べて24時間戦える(古!)スーパービジネスパーソンが出来たわけです。
昔は”ぎっちょ”なんてよく言ってましたね。※ちなみにぎっちょの語源です。→ヤフー知恵袋より
ばあちゃん家行く度に「アンタはぎっちょだったんかね」とゆー初見のリアクションを毎回繰り返してました。
ぎっちょがマイノリティだった頃と比べると、ごくごくフツーにぎっちょがいて、ぎっちょ人口が増えたのも事実です。TVやCMでもふつーに露出してますね。

経験からすると、矯正はNG
 ぎっちょの認知が広まったとはいえ、矯正されるケースがあると思います。結論から書くと、矯正イクナイです。
単純に幼少期のストレスになってしまい、吃(ども)りになったりするそうです。調べてソースが出てこなかったのが残念ですが、たしかイギリスのかつての大統領が晩年その治療に大変苦労されたと記憶しています。
続けると、右脳左脳のインプットがぶつかってしまい、典型的なのが聞いている話が理解できないことが起きます(コレ、私がそうです)。耳から入った情報が脳をぐるっと1周しようとするそうで、脳で処理しようとする言葉が途切れたり、意味不明な言葉になってしまい「は?」と反射的に答えたり何度も聞いてしまったりということがあります(相手には大変失礼な態度だと思われそうですよね)。
また、(言葉は発せられているけど)聞こえない、理解できない他の要因で、会話している相手の声よりも周囲の声や音がノイズになって優先的に入ってきてしまうため、結果的に聞こえない・理解できないこともあります。
そういえば小学生時代、よく地獄耳なんて言われてました。だってピンポイントで遠くの同級生の会話が急に入って来るのですから(^^ゞ
と、これを書こうと思ったのも、うちの次女が完全ぎっちょなんですね。よく、幼児期はどっちの利き手もなくだんだん落ち着いてくる(長女は左利き→右利きでした)そうですが、次女の場合は何ら迷うことなくずっと左利きです。
なのでエジソン箸も、ハサミも左利き用。ナイフも持たせてみましたがぱっと左手で持ちます。そもそも右手で持つ概念がないんです。
もし、利き手の矯正を考えてる方がいらっしゃったら、被験者の意見としてお伝えください。自由に、のびのびなら構うことないのが1番ストレスフリーなのです(^^)
書き順(書き方向)が多少違っても、本人にはそれがフツーですから、不憫に思わないでください。理解に寛容になってください。
私の知り合いで、大人になってから”右脳を鍛えるぞ!”と左利きに変えた人もいます。とゆーことは大人になってから、本人の自由意思で充分間に合うのです。
参照サイト:Wiki:左利き左利きの是非 

心の”どこでもドア”を開こう

思春期ってのは多感ですよね
 小見出し書いて気づきました。多感=インプットがたくさん。そうかそうなるとアウトプットもたくさんになるはず!
出だしからスミマセン。小学校高学年の長女は、家に帰るとお喋りモードにスイッチが入るようでして、と、止まらないんです(^^ゞこれでもかってくらいお喋り!女子ってこうなのか!?ってちょっと不信になるくらいお喋り!学校での女子トークも同じくらいなんて言うものですから、ちょっと引きますわ!
さらにそれがまとまっていれば良いのですが、起承転結をバラバラに話すのでマシンガントークならぬショット・ガントークです。お父さん銃撃戦トークに正面から向かうか避けながら向かうかのどちらかの決死戦です。→体外やられちゃうのですが
そんな娘のトークに、付き合える時は付き合いますが、出勤前などはちょっと相手にできないので自粛してもらいます。
しかしまあ学校での出来事、クラスメイトの無粋な男子、テレビの話、ゲームの話。まあよくもチャンネルコロコロ変えるが如く飛び出てくるものです。

その感情はどこにつながっている!?
 そんな娘のショット・ガントークなのですが、不満をぶちまけることがあります。例えばクラスの男子はどうしてデリカシーないんだ!的な。
付き合いきれなくて限界になろうとした時言いました。「クラスの男の子に対して、どう思うかによってその先の展開が違ってくるよ。視点や視座を〜」しまった!視点や視座なんて知らないから余計な銃撃戦が始まる!言い換えます。
「ドラえもんが出す”どこでもドア”あるでしょ。あれってのび太くんだったらしずかちゃん家に行きたくてドアを開けると、100%お風呂だよね。てことはのび太くんは単に”しずかちゃん家に行きたい”というよりもむしろ”お風呂場を覗きたい”と心のどこかで思っているからなんだよ」。
よし、我ながら例えられた!さらにつづけて
「だから相手に対する気持ちの持ちようで変わってくるんじゃないかな。のび太くんがしずかちゃんにフツーのクラスメイトの感情なら家の前に出るはずでしょ。好きな気持ちがお風呂場に導いて、そしてお約束でしずかちゃんは入浴中」
ちょっとネタもはさみつつ笑いもとって、
「だからお前も男子に対して”嫌なヤツだなー”って思っているとどこでもドアの先はもっと嫌な場所を開いてしまうはずだよ。その嫌な場所見たらもっと嫌なこと話すでしょ?それっとどんどん楽しくなくなるよね。だったら”ま、これもこの子のキャラだから”くらいに思ってドアを開けば違った姿=場所が見える(開ける)んじゃないかな」
娘は「ふーん」くらいに聞いてましたが、視点を変えたら見方が変わるのをどこでもドアを挟んでみましたが、はたして理解してくれたのでしょうか。
どこでもドアのノブには、感情を読み取る機能があるはずです。その人がイメージしている以上の、潜在的に思っている場所を導くのではないでしょうか?と半分妄想で仮説してみました。
みなさんだったらどの場所が開けるのでしょうか!?私だったらモテキの神輿の上かなぁ(^^)

 

”弱い紐帯”でつながろう

ソーシャルメディアを武器にするための10カ条を読んで
 徳本昌大さん、高橋暁子さん共著「ソーシャルメディアを武器にするための10カ条」を読ませていただきました。
SNSって利用していない人にとっては、得体のしれない共同体のような、団体のような、集まりのようなものに思えるかもしれません。私も実際、ミクシィは友達いなくて招待されずノータッチでした(^^ゞので、「何だかそんなものが流行っているのだな」程度だったのを記憶しています。
フェイスブックやツイッターはツールにすぎません。主軸はあくまでも人と人とのコミュニケーションです。そしてそれらソーシャルメディアを継続して利用し、また活用することで人生に様々なチャンスをもたらしてくれることを徳本さん高橋さんは説いています。

このブログも徳本さんきっかけ
 実は私のブログを続けているのも、徳本さんがある朝活で講師としてお話されたのを聞いたのがきっかけです。
その時は毎日継続するなんて無理。通勤中に書いている徳本さんすごいな〜と思っていました。
今でも覚えているのは、ファシリテーターの方が「徳本さんの話を聞きに来られたということは、みなさんブログ始めたい!からですよね!?ではこれからブログ始める人!」の質問に挙手はまばら。私もムリムリムリ!と思って小さくなっていました。
継続して発信することでSNSでつながった人が見てくれる。SNSでは情報が流れていってしまう”フロー型”に対してブログは”蓄積型”。下火になって利用度が低くなったブログを逆に利用する。
実際、継続していてリアルに会っている人にブログのことについて声をかけられます。フェイスブックでもリアクションがあります。※読んでいただいていらっしゃる方、本当にありがとうございます!
私自身も、聞き手側になることが多く、自分の考えや思いを話すことって少ないので理に適っているようです。

弱い紐帯の強さ
 本の話に戻ります。10カ条というタイトルの如く、10条の構成になっていますが、この中で刺さった言葉を紹介します。
第4条で、社会学者のマーク・グラヴェッターが提唱した考え方「弱い紐帯の強さ」が紹介されています。
家族や親友、同僚などは「強い絆」で結ばれています。生活環境や価値観が似ており既に情報共有されていることが多いそうです。
一方であまり親しくない関係の人とは「緩く弱い絆」で結ばれていて、生活環境や価値観も異なります。つまりそれ故、まだ得ていない本当に人生を左右するような重要な情報は、あまり親しくない関係からもたらされることが多い。これが「弱い紐帯の強さ」なのだそうです。
チャンスはふとした思いがけないところから。セレンディピティとつながっていそうですね。
SNSをやるなら、名刺代わりにするのもいいのですが、ちょっと志向を変えてみると素晴らしいきっかけづくりのツールになると思います。

本の紹介:ソーシャルメディアを武器にするための10カ条
徳本さんのブログ:ソーシャルおじさん徳本昌大の習慣化ブログ
高橋さんのブログ:高橋暁子のソーシャルメディア教室 

毎日は習慣化した連続体である。その2

なんとなく断酒してみたらできてしまった件
昨日からのつづきです。
 私が習慣化した中のひとつに、断酒があります。それを事例として披露します。
こう見えても見えなくても私、お酒大好きです(^^//)ビールからはじまり、ウィスキー、ワイン、日本酒!なんでもござれ!家系的に酒に強く、私の場合は呑み始めてドカーンとテンション上がってそのままのようです。

最近でこそ、お酒で失態やらかすことが(少なく)なりましたが、若い頃は上司のクルマ(新車)の助手席にリバースしたり大好きなスタートレックのデータ少佐だ!なんて吠えてなりきったりさんざん周りにご迷惑おかけしました。
vedett
 そんな酒好きな私ですが、昨年引っ越した秋口あたりからいわゆる”家呑み”を止めてしまいました。
きっかけは「雪猫かふぇ」を主催されている、かわいゆきさんが断酒をはじめて1ヶ月経過したというポストを見て、なんとなく私もトライしてみました。
普段、家だと夕飯時か風呂あがり、子供寝かしつけてからのどこかで缶ビールを開けていました。
これをすぱっと止めてみる。あえて意識して〜なんてやると挫折してしまいそうですから、猫を追うより皿隠せ!でビールを買うのを止めてしまいました。

3日間くらい経過して、2つ気づきました。
 1つは朝の体調がいいのです。しかも連続で。ん!?ともすると朝なんとなく不調っぽかったのはお酒のせい!?家で呑む時は缶ビール1本が関の山でしたから、これを止めただけで不調さもなくなってコスパ最強じゃね!?なんて思ったり。
それと先日、献血をしたのですが血液検査がハガキで来てました。γ-GDPが前回(といっても15年前だったのですが)から比べて劇的に落ちてました。75が42に!相対変化としてはすごいですよね!?

もう1つは惰性で呑んでいたことに気づきました。夜のどこかのタイミングで缶ビールを開ける。というのが習慣化していたのですね。ほぼ毎日でしたから、呑みたいから呑むのではなく、そこには”惰性”と”習慣”という動機が潜んでいたようです。

ということで断酒してから1週間もすれば呑むことも考えず、これを続けて半年以上経った今も、家では呑んでません。
あえて言えばお正月の時に棚で寝ていた紹興酒を燗したくらいです。それでもその時、なんとなくの気持ちで3日続けて呑んでいました。また針が逆に振れるところでした。あぶねー(^_^;)
ただし、呑まないのは家だけで、仕事の会食などでは呑んでます。固い意志でも断固でとして無理して呑まないのではなく、ただ単に家で呑まないのです。結果、家で呑むことはパタリとなくなってしまいました。”家で呑まない習慣化”しただけなのです。

ということで、普段の生活ルーチンを振り返ってみて「これは直したい、正したいなあ」なんてことがありましたら、まずは2週間!継続してみませんか!? 

毎日は習慣化した連続体である。

あえてカンタンに言うならば、
 結論から先に書くと、この毎日は習慣です。ようやく気づきました。習慣化習慣化と何やらエベレストにでも登れと言われているような叱咤激励は、あえてチャレンジを難しくさせています。
毎日続けていること。それこそ習慣化していることなのです。
1日のスタートから見れば、朝起きること、歯を磨くこと、顔を洗うこと、朝食を食べること、出勤すること。これらは1日の習慣に組み込まれていますよね。
ヘタしたら、呼吸をすることだってそうです。心拍運動もそうではありませんか!?
無意識の中に落とし込まれているから、気付かないだけであって、実は様々なことを習慣としているのです。
では何か新しいことにチャレンジすることはどうでしょうか?

気付けただけでも、素晴らしい!
◯◯ダイエットを続けて、◯キロ痩せよう!とか、お酒を止めたりタバコを止めたり。
習慣化していないことを別の動作に入れ替えようとするから、抵抗感があるのです。別のことを習慣化に落とし込もうとするから、途中で断念したり中途半端に終わってしまうのではないでしょうか。
私が習慣化した事例を明日掲載しますが、習慣化してしまっている惰性的なものを続けているようなら見直しの時かもしれません。
そこに気付いた方は、それだけでも素晴らしいです。それにすら気付かず惰性で一生終わってしまう人もいるはずですから。
そして”習慣化”することは難しいことでもありません。なぜなら言うまでもなく今の日常が習慣化された組み合わせに成り立っているからなのです。
コツは意識を少しずらしてみること。いきなり入れ替えようとすると当然無理が生じます。
これは、今の習慣化と新たな習慣化の入れ替え劇というせめぎ合いなのです。 
といういうことで明日につづきます。 

ユーノス・ロードスターに寄せて

オープン2シーターの雄
 クルマの免許を取ってから三菱FTOをなんとなくで買い、それが新車だったものですからローンだけでイッパイイッパイ(^_^;)ガソリン代にまわせるお金もないのでガソリンタンクは常にハングリー精神で乗ってました。
ほどなくして後輩の親父さんがユーノス・ロードスターに乗っていて運転させてもらったのですね。
もちろんオープンの状態にして。そしたらすっかりロードスターの虜になってしまい、その数ヶ月後にはFTOからロードスターに乗り換えてました。(さすがに中古車です)
オープンカーに乗ったことがある人ならわかると思いますが、オープンで乗る醍醐味は冬の寒い時期です。
革ジャン羽織って、足元のヒーターを入れ、冬の早朝なんてドライブすると気持ちよくて仕方ありません。

リアウィンドウがビニールて!
初代ロードスターにって、リアウィンドウがビニールなのです。今のクルマからすればけっこう荒い作りなクルマ多かったような!?しかもチャックで開け閉めします。これはオープンにする時、幌を折りたたむ構造上ジャマになってしまうため、オープンにする時は先にリアウィンドウのチャックを開けて折りたたむ幌のジャマにならないように逃がし、それでから幌をオープンにします。※チャック忘れるとリアウィンドウ折る結果になるのです。
このリアウィンドウが経年劣化によってくすんでくると後方視認がとれなくなります。
私のロードスターも同じでした。
ちょうどその頃、2代目ロードスターが出たのですね。今度のリアウィンドウはなんとガラスだと!チャックもなく幌の中にうまいこと収納される構造だと!(だったら最初から。。。)
さらには私のロードスターにもその幌が互換性あるということがわかり、ディーラーで購入しました。
たしか8万円。取り付けは同じくらいの価格言われたので、テント屋さんにお願いしました。そしたら半分以下の金額。
仕上がった姿は、初代ロードスターでガラスのリアウィンドウ!誰も乗ってないカスタマイズで最高でしたね!

カエルみたいなクルマに変身するのです
初代ロードスターはヘッドライトがリトラクタブル(格納)タイプでした。ライトオンするとペコッと起き上がってカエルみたいになるあのランプです。
私、ああいうギミックが大好きなのです。しかし今はどのクルマにも見られなくなりました。
元々、ヘッドライトの最低地上高をクリアーして空気抵抗を減らすためだったりしたのです。
ナゼか?
それはアメリカではデイライト(日中でもライトオン)が義務付けられたり、安全上の問題から採用されることがなくなってしまったそうです。
少なくともアメリカに輸出するならまずアウト。日本は問題ないなら日本市場向けて作ってくれてもいいのに!
ダイハツのコペンなんていいとは思うのですが!?

ドライブが好きな人なら1度乗ってみてください!
 ガソリン価格がやたら上がってきて、走る楽しさから走るコストを気にするような時代になってしまいましたが、クルマ好き!ドライブ好き!なら1度乗ってみてください。走る世界が変わります。走る楽しさが広がります。
そんなロードスターも今年が25周年。そして次期ロードスターもシャシーが公開されるなど、そろそろ世代交代が迫ってきました。
でもやっぱりヘッドライトはリトラクタブルじゃないんだよな~!クーーー!
 

ネットにはない、宝島

日本の島の数、知ってますか?
 TED☓TOKYOに出られた鯨本あつ子さんのプレゼンを観てびっくりしました。日本の島々、その数いくつあるかご存知ですか?














(╹◡╹)!
その数6,852島だそうです!
300かな?多くても500はないでしょ!?なんて思いませんでしたか?わたしもいいとろかなり盛っても700くらいかなぁ~なんて思ってました。
そして人が暮らしている島が430になるそうです。
島に移住する友人からの気付きで、離島の情報発信をしようと新聞発行に乗り出されています。
詳しくは最後にリンクを載せておきますので、ぜひ拝聴ください。

宝島はネットの外側に!?
離島の素晴らしさをまとめ情報発信しようと動き出したのも、インターネットに離島の情報が少なかったから。と彼女は言います。
なるほど、きっと人口の少ない島であればなおさらなのかな。とも思いました。
でも逆に考えるとネットの世界の方が伝えてもらいたい情報が少なかったり、埋もれてしまっていれば離島のように”素晴らしさ”を伝達できていないのでは。と思いました。
かくいう私も、”ネットから拾えない情報はない”ことと、”PCでできないことはない”と信奉しているきらいがありました。
でも拾えない情報って実はあるのですよね。5感で言えば味覚や嗅覚。その場の空気感もその場所に行かなければ得られない体感情報です。
そういえばネットが発達してから「行動する」という動作が鈍くなった気がします。引きこもりもこの最たるものではないでしょうか。
だとすると、やっぱ行動することから出会うこと、その場に行くこと、体感すること。これらの方が情報量と質に優れ、人を成長させるのだと思いました。
うーん書いていて”もうわかってる人いっぱいいるだろう”けど、”こんなことに今更気づくの遅いよ”かもしれませんが、現代社会の病巣が見えてきたような。。。
ネットの情報って豊富そうで実は薄っぺらいのですね。宝島はネットでは見つけられない!ネットには載っていない!載らない情報がドアの先にある!ちょっとPCから離れてみようかな(^^)!
参照:日本の離島は宝島: 鯨本 あつこ at TEDxTokyo
ハフポスト:「離島は宝島」 主催者・鯨本あつこ氏が語る、「離島メディア」をつくったワケ

 

ありがとう、ごめんなさい。

何かをしてもらった時、どっちの言葉がパッと出ますか?
 「ありがとう」と「ごめんなさい」。この2つの言葉って同じシチュエーションで使える言葉です。
例えば机から落ちた消しゴムを隣の人に拾ってもらった→とっさに出てくるのは?「ありがとう」or「ごめんなさい」
電車で席を譲った→相手から聞こえてきたのは?「ありがとう」or「ごめんなさい」
「謝辞」という言葉がありますが、辞書で引くと(Goo辞書さんより引用)
1 感謝の意を表す言葉。「来賓への―」
2 非をわびる言葉。「被害者に―を述べる」
と、「ありがとう」と「ごめんなさい」の相反する意味が込められています。

昔、中華料理屋でバイトしていた時、出前の配達をしていました。
よく出前を頼んでくれるお客さんがいらっしゃって、姿からおそらくタクシーの運転手さんでした。
「こんにちはー!出前お待たせしましたー!」「○○円です、いつもありがとうございますー!」なんて若かれし頃の私は、元気だけは取り柄なりに応対するのですが、そのお客さんはいっつも
「すみません、すみません」と「すみません」の連呼。
(-_-;)う、そんなに言われたら食べて喜んでもらいたいのに何だか申し訳ない気持ちになってきてしまいます。
今思えば、その方の接客も同じような対応なのだろうと想像がつきます。
謙遜する、恐縮するくらいなら、感謝しちゃった方が相手も気持ち良いものです。
”謙遜も度が過ぎると嫌味になる”とはまさにこのことですね。
なので私、「ごめんなさい」という言葉を極力使いません。「ありがとう」の感謝で押し切っちゃいます。
ですが当然謝らなければならない時もあります。例えば注意された時。そんな時は「すみません(指摘していただいて)ありがとうございます。」と謝り→お礼とかぶせちゃいます(^^ゞありがとうの理由もちゃんとカッコ内のようにあるのですよ。
何かしてもらって(施しがあって)、そこに感謝があって建設的になれるのか、すみませんから何も生まれないのか。(ちょっとは何かあるかもしれませんが感謝ほどではないはずです)前向き思考なら、どちらを選ぶか自ずとわかりますよね(^^)
 

あの世との会話

お彼岸ですが、お墓参りしてますか?
 家族でお墓参りに行ってきました。爺ちゃん婆ちゃんのお墓、父親のお墓、弓道の師匠のお墓と墓参って来ました。(墓ばっかり続きますね(^^ゞ)
さすがにお彼岸ともあって、お寺、共同墓地は人が大勢。お寺特有のちょっと細い道が混雑していて運転していた嫁さんも対向車かわせるのか戦々恐々してました。
ちゃんとお墓参りするのなんて、30代入ってからです。やっぱ、先祖ありきなのだな、と実感するとともに生きてきたこと、育ててきたことを感謝するにも、私でしたら墓前しかないのです。もし、まだ生きていたなら感謝することは当然ですが、話したいこと、聞きたいことたくさんあったのになぁ。お墓はあの世とこの世をつなぐ窓口みたいなものでしょうか。
実は、普段の日でも仕事帰りとかにちょいちょい寄ってお線香だけ上げていくこともあります。
仕事のこととか家族のこととか報告すると、なぜかその後いいことあったりするのです。お仕事の契約決まったり。それでまた報告しに行ったりします。
また、お爺ちゃんのお墓は子供の時以来お墓参りしていなくて、当時の記憶だけで探し当てました。お寺の場所は、確か湧水が有名で汲みに来る人がいて、なんてのをうろ覚えしており、ネットから探しました。
実際に行くとお寺の記憶もドンピシャで、お墓の場所も記憶を頼りに行ったら一発で見つかりました。
ま、母親に聞いてしまえば済んだことなのですが、ドラクエっぽく探検したかったのもあり(^_^;)
でもお墓を見つけた時、懐かしさとよく来たねと声掛けられているみたいで涙が出ました。
お墓には木が生えており、おそらく自然と伸びてきたのだと思います。
お爺ちゃんと遊んだ記憶。今でもよく覚えているのが、座椅子に座りながら居眠りしているお爺ちゃんのアタマに弟がイタズラで入れ歯を乗せました。
眠り込んでるお爺ちゃん。そしてほどなく来客がありましたが、その方の目に飛び込んで来た光景が”入れ歯をハゲアタマに乗せて寝てる爺ちゃん”でしたので、笑いをこらえながら引き戸を閉めて帰ってしまいました。
私と弟は居間の脇で一部始終を見ていたので、おかしくて仕方なかったのです。ハゲアタマに入れ歯なんてダマシ絵みたいな光景ですよね(^^)笑わないわけがないわー
父親は私が22歳の時に亡くなったので、大人になってからの会話を全く出来ませんでした。
なので時々墓前を通じて話します。少なくとも話せなかったことがスッとハラに落ちていくのですね。
お墓参りの時は、大抵お酒を持っていきます。そして子供たちは爺ちゃんたちが本当に呑んでいると信じています。「あ、減ってる!」と。干菓子もキレイになくなってたので、これは甘いものだからお婆ちゃんだ!と(^^)紙の包みごと食べちゃってることになるのですが(^_^;)
もし、この連休時間がある方は、消費税の駆け込みよりも優先して、お墓参りしてみては!?