今夜は弔い酒を
3.11のことで少しだけ
以前の投稿「きっかけバスを走らせよう」で、私の震災時のことは書きました。その1年後のことを書きたいと思います。
前職で社外報を制作担当していた私、というか私は担当ほどでもなく部下が取材してきた内容をチェックすることくらいが仕事でした。
東日本大震災から1年経過した時、特集記事を企画しました。当時の記憶、復興が終わっていない被災地。風化させてはいけない。それらを発信したかったのです。
通常の進め方であれば、現場の方に取材オファーをお願いするのですが、今回は企画意図を説明しご理解いただいたうえで後日取材させていただく手順で進めました。
私と上司で宮城県仙台市と岩手県田野畑村に向かい、現地支店長と訪問しました。
取材内容を快くご理解いただき、それならと、当時の状況を教えていただきました。
写真は仙台空港近くにある自動車整備工場さんの1枚ですが、印象的だった津波の水位を示したプレート。ドアの上なので3mは超えています。プレート位置には海水の跡が残っていました。当時の記憶を残すため、取り付けられたそうです。
津波が押し寄せた時は、部品倉庫の中2階に避難し難を逃れたそうです。その時、水位はギリギリだったとおっしゃっていました。
仙台空港周辺は、海岸から2kmも離れていない場所です。水流も相当だったそうですが、工場も倒壊せず、踏ん張った。だから生き残れた。と強い言葉を語っていただきました。
整備工場さんを後にして、今度は岩手県へ目指しました。
仙台空港周辺はガレキの処理に追われるダンプカーで溢れかえっていました。そしてダンプカーがいないエリアは荒涼としているのです。
聞くと、その辺りは住宅エリアだったそうです。難を逃れた家屋がぽつんぽつんと残っていました。
それとまだ撤去されていない船も道路脇に点在していたのも印象的でした。ダンプやトラックに乗せきれない大きさのものは、おそらくその場でスクラップしてバラバラにしてから運んでいるのかな、と思いました。
上の画像もそんなことを物語っていそうです。
翌日、岩手県は田野畑村に向かい、前日と同じように取材内容を説明しました。クルマの整備だけでなく、漁に出る船の整備もやられているとのことでしたが、地域から漁師が避難し、同業者も避難した。だけど、また漁に出る人と船が帰ってきたら誰も整備する人間がいない。だから残って続けるよ。と、お話をお聞きしました。
帰り道、三陸鉄道の線路がありました。線路が寸断されてしまい、戻れなくなった車輌が主人の帰りを待つかのように線路の上で佇んでいました。
同じ時間なのに、こうも状況が違うものかと思うと、何かやりきれません。
また、震災で亡くなられた方、行方がわからない方。たくさんの犠牲がありました。
私ごとですが、今でこそ”ご縁があった”とか”ご縁を大切にしている”なんてフツーに話していますが、そういう気持ちになったのもここ2年くらいです。それまでは何ら変わらず生きているのは自分が生活してるからだ程度しか思っていませんでした。
「ご縁」というつながりで考えると、もしかしたら亡くなられた方とつながることがあったのかもしれません。縁が切れたのか、はたまた”あの世”と”この世”くらいの縁遠くなってしまったのか。
もし、仏教の教えのように”この世”が”あの世”であるならば、あの時たくさんの人たちが本来の世界に戻ってしまったというのなら、私はいつか会える日を、もうちょっと後のお楽しみにとっておきたいと思います。そして、もうちょっと今の世の中をよくして、楽しくして、命を擦り減らすだけ擦り減らして使い込んで全うしてから、会いに行きたいと思います。そう思えたら、ちょっとだけあの世に笑顔を向けられるようになりました。
長くなりましたが、今夜は弔い酒を。