社会はみんなのため
子供と清掃作業をして思うこと。
先日、フェイスブックにもさわりだけ書いたので重複する部分もありますが、こんなことがありました。
※コピペしちゃいます。
夕方の散歩の時、次女と愛犬と近所の公園まで行きました。
公園の広場にパッと目を配ると、ペットボトルやらお菓子の容器が散在してたんですね(>人<;)
ブランコしながら次女に
「ゴミが散らかってるね、どう思う?」
「だめだねー」
「じゃあどうしたらいいと思う?」
「片付けた方がいいと思う」
とゆーことで2人でペットボトル4本とお菓子(ソフトクリーム)の容器とスプーンをいくつか回収しました。
愛犬のエチケット袋の予備があったのでゴミはまとめ、ペットボトルは手で持ち帰りました。
思ったことは今夜ブログにまとめます。
それと今後はもう一回り大きいビニール袋を持って散歩に出かけたいと思います(^ ^)
ま、日常ありがちな光景。といったらそれまでなのですが、NPOサプライズの飯倉さんが以前おっしゃっていた、”ゴミ拾いを始めたきっかけと同じような光景”が自分の眼前に広がっていたのです。→NPOサプライズの清掃活動はコチラ
見過ごすか、行動するか。考える必要なんてありませんでした。0.1秒、いや0.000001秒で「片付けよう」と思いました。
公共の場所だけでなく社会はみんなのものです。みんなのもの、というと所有物のようですので言い換えると”みんなが利用するものです。プライベートの場所・モノ以外は、すべての人の利用機会を内在しているのですね。
それと捨てていない自分があえて片付けることには、「割れ窓理論」のことも頭によぎりました。(ニューヨークの地下鉄で落書きを一掃したら犯罪が激減した)
子供も利用する公園をキレイに安全に使いたいのは、私だけではないですからね。
それに前述の子供に聞いたら片付けるという意見も尊重し行動に移したわけです。
ゴミをまとめ、最初近くのコンビニのゴミ箱に捨てようと思いました(拾った容器がおそらくそこのコンビニのものだったので)。でも止めました。コンビニのゴミ箱に処分することはカンタンです。でもそうでない気がしたからです。自宅に持ち帰ってペットボトルは水道で洗い、潰しました。
他人の尻ぬぐいをやる必要はあるのか
街や社会は”みんなのため”なんてあえて考えること、30を過ぎるまで考えたこともありませんでした。”みんなが使うから自分もちゃんとしよう”というとなんだかおこがましくて逆説がはびこっているなら自分もちゃんとしなくていい。なんて考えも起きてしまいそうです。
それよりも、”みんなはそうは思ってないかもしれないけど、自分からちゃんとしよう”と考えると、他人のエゴなんてどうでもよくなり、逆に賛同している人がいれば共感し合流できると思います。
”ゴミを拾うのはゴミを捨てた人”ではなく、”ゴミを拾うのは自分の社会を安心して利用するため”くらいに思って行動すると、”誰かのため”と”自分のため”がセットになっていて、行動にも葛藤は現れないのだと思います。
何より、ブログのタイトルどおり、「社会をよくしたい。楽しくしたい。」そう思っていることが行動になっているだけなのかもしれません。
”人間は思ったことしか実現しない”なんて時々聞きますが、最近思うのです、もっと自分にはやらなくてはならないことが他にたくさんあるのではないか。今、生きていることが成すべきことを成していないのではないか。自問自答の日々です。